天保五年に豊前中津藩の下級武士の家に生まれた福沢諭吉は、三歳で父を亡くし、大阪から母と兄弟五人で故郷中津に帰る。大阪育ちのため言葉や風俗が違い、中津の人々との間に距離を感じながら育った。学者であった父の遺風により、母は儒教的教育方針を貫き、芝居見物なども一切禁じて家風を正しく保つ。諭吉自身は手先が器用で、下駄作りや刀剣細工などの内職も手がけた。
十四、五歳になってようやく学問に目覚め、近所の塾に通い始める。遅いスタートながら天性の文才により急速に上達し、特に「左伝」を十一回も通読するなど漢学に没頭した。師の白石は亀井昭陽の学風を受け継ぎ、頼山陽らを軽視する堅実な経学派であった。こうした厳格な学問環境で基礎を固めた諭吉は、後に洋学への転身を果たし、慶應義塾を創設して近代日本の教育界に大きな足跡を残すこととなる。封建制度への反発を「門閥制度は親の敵」と表現し、身分制度に縛られた父への思いを込めて語る姿に、明治の啓蒙思想家としての原点が見える。