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自分は風景の中に生きているのである。 自分は風景の一部分であるのだ。
国木田独歩「武蔵野」
背景解説
「自分は風景の一部」。これ、すごい感覚だよね。普通は「風景を見ている」けど、独歩は「自分が風景の中にいる」、しかも「風景の一部になっている」と感じてる。観察者じゃなくて、自然の一部として存在している。マインドフルネスとかの前に、独歩はもうこの境地にいた。
あなたは風景を「見る人」?それとも「風景の一部」?
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『武蔵野』の他のひとふみ
武蔵野の美についてはだれが一番よく知っているか。 自分は先ず蕪村を推したい。
国木田独歩
武蔵野に散歩する人は、 道に迷うことを苦にしてはならない。
国木田独歩
今の武蔵野は昔の武蔵野ではない。 しかし今の武蔵野にも、 自然の美がないと云うものは、 必ずしも自然を解していないのだ。
国木田独歩
落葉の音と自分の足音とのほかには何の音もなく、 非常な静かさが四辺を領していた。
国木田独歩
林を出て広い畑に出ると、 からりと晴れた空が頭の上に展開し、 秋の日が一面にきらめいていた。
国木田独歩
秋の半ば、十月の末から此の雑木林の変化は見事である。
国木田独歩
自分はかつて此の境に佇立して、 落日の光の穏やかに林を照すのを見て、 かの詩人の詩にはじめて思い当ることがあった。
国木田独歩
武蔵野の俤は今纔かに此の大きな林に残っている。
国木田独歩
この落葉林の趣きは、 いかにも東京のすぐそばにある自然として 最も相応しいではないか。
国木田独歩
されば武蔵野の美にして、 一日だも変化のない日はなかった。
国木田独歩
自分はこうした武蔵野を愛するものである。
国木田独歩
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